数日前にな。映画館で映画を見るのはほぼ半年ぶり。なんにせよ一緒に行く人が居て、終わった後に感想戦が出来るのはいいことですね。というわけで微ネタバレ含め感想をざっくりと。
■総評
宮崎駿の雑想ノート+。基本的には飛行機設計技師プロジェクトXと戦闘機格好いい譚。つまり雑想ノートであって、雑想ノート的な観点から評価されるべき作品(原作もモデルグラフィックスだしな)。であって、なぜか世間的に評価高いのは絶対おかしい。
もう少し雑想ノートに寄せると、技術者の超人的献身、貧乏国ゆらぽよ譚、飛ぶことの快楽と驚き、みたいなモチーフ。これらがアニメ作画的に端正に表現されているのはすごい。しかし手放しで評価出来るのはそこまでである。
■軍事オタクの両義性と平和主義との矛盾
しかし本作のテーマは、紅の豚というよりは反-紅の豚なのである。すなわち、飛行機の両義性――同時にそれは設計技師の両義性でもあり、軍事オタクの両義性でもあるのだが―― が主題となっている。これは全面的に正しいし、よく描けていると思う。
飛行機は人類の夢と技術者の叡智の結晶という以上に戦争の道具である。とはいえ「風立ちぬ」は、平和を願いつつも戦争に利用された悲運の技術者の話ではない。この映画の恐ろしいところは、そんなありがちな葛藤を超えた所にドラマを成立させている所にある。彼らは必ずしも積極的にではないものの、悪の凡庸さという以上には積極的に体制に組み込まれているものとして描かれる。それをみて我々は「こいつらはなんでそんなに葛藤がないのだろう」と不気味がる。とはいえ我々は同時にまた、――これは登場人物に感情移入させる物語の力であるとともに、我々がどこかで学んだマスターナラティブのおかげで――世界水準に追いついた初の国産戦闘機の誕生の物語を享受することも出来る。しかし、同じくその結末を知っている以上、それを手放しで賛美することもできずにいよいよもって混乱してしまう。
だから、この映画が九試単戦で終わり、零戦まで行かないのは全く不当なことである。が、これはおそらく審美的な問題もあると思う。九試単戦の逆ガル翼は美しいが、その不恰好な空冷エンジンはあんまり美しくない。宮崎がわざわざ後ろ向きのカットを多用しているのはこのためであろう(適当)。同じ理由で零戦の空冷エンジンはあんまり美しくない。おまけに逆ガル翼もない。
ともあれ、これは飛行機の映画ではない。軍用機の映画である。そうでなければドラマが成立しないからである。しかしそれは軍用機の目的合理性にベッタリな映画でもない。むしろ軍用機の目的合理性にベッタリな人々を見て気持ち悪がる映画である。しかしそれは軍用機を否定する訳ではない。その点でカプローニのラストフライトで、納品前の爆撃機に皆で乗るシーンは象徴的である。あの場面は爆撃機でなければドラマは成立しない。しかし、それは単なる爆撃機ではなくて、その目的を「ずらされた」爆撃機である。
これは、非常に象徴的に描かれる飛行機の残骸の山についても同様である。戦闘機は破壊され、それが本来の目的に役立たないほどにオワコン化してはじめて、それを享受できるのである。その意味で、少なくとも飛行機の両義性問題については、一つの回答が示されているように思う。本来の目的に使用されない爆撃機を愛すること、残骸となりはてた戦闘機を享受すること。軍事が切実な問題でなくなってはじめて、戦後民主主義と軍事オタクは手に手をとりあって進むのである。
■批判
しかし、この種の倒錯的な論法への称賛が出来るのはここまでである。この映画のもう反面、結核嫁どうするか問題については端的に気持ち悪さしか感じなかった。
テーマ的に戦闘機の横に結核嫁を置くのは整合的である。どちらも死と隣合わせのものの美しさ、儚さ、鮮烈さみたいなものをイメージさせる。したがって、おそらく実話ではない悲恋話を持ち込むことは整合的である。だが、それ以上に以下の③つの理由で気持ち悪さとつらぽよ感を強く感じてしまった。
つらぽよ①:戦闘機と嫁を同じように扱ってはいけないだろう
仕事が忙しい、が、嫁が余命いくばくもない。嫁をとるか仕事をとるか、という話になるべきだが、全くそうではない。仕事を捨てられない理由は一応明示的に示されている(特高警察)が、そもそも物語のうえでの葛藤にすらなっていない、そもそもそれは二律背反をなすものではないからだ。
堀越二郎にとって、戦闘機の設計と、菜穂子と時間を過ごすことはともに人生に意味を与える、大切なものであったことは疑いない。しかしそれはあくまで、享受する主体としての二郎にとっての大切さであって、その意味で菜穂子と九試単戦はともに同じものなのである。問題なのは、菜穂子と二郎の相互的なやりとりが殆ど描かれていないという点である。これは宮崎駿の作風を考えれば無理もないが、「死期の迫る妻との一日一日を大切にする」という台詞を裏書するものではない。そうであるがゆえに、二郎にとって本質的だったのは物質的な美であり、問題だったのは自然界の必然性だけであった、と感じられてしまう。
我々の文化圏におけるひとつの定式、すなわち、「メカと美少女」はメカと美少女の予期せぬ調和というところに重点があるのであって、それはメカと美少女の単なる並置以上のものだろう。
つらぽよ②:働く男は美しい…のか?
上で述べたように、二郎と菜穂子の関係の描写はどこか空疎なところがあった。だが単にこのことが、病弱ヒロインとの同居生活の説得性を突き崩すものではない。二人の関係は内在的というよりも外在的な枠組み、すなわち歴史的な家族規範や性別役割によって枠付けられている。それはとりもなおさず、時折顔をのぞかせる二郎の階層の高さであり、あまりにも明示的に描かれている彼の技術者としてのマスキュリニティである。
これについては多くを語る必要はないだろう。しかし、当時結核患者が置かれていた社会的地位についてはどの程度重く見るべきだろうか。結核を患う女性と結婚しようなどという物好きな男性はどのくらいいたのだろうか。あるいは、親戚でもない結核患者に、離れとはいえ、住居を提供する親切な人は果たして存在したのだろうか。
つらぽよ③:童貞的発想に対する「こんな女いねーよ」論
かくして菜穂子の視点を獲得するや、これは妻を軟禁して殺した男の話ではなく、それによって救われた女の話なのではないか、という話に思えてしまう。が、これは罠である。そんな都合のいい話にどういんされてはいけない!そんな都合のいい美少女はどこにもいない!どこにもいなんだ!
■あり得べき反論
こういう主張は逆に語る人の立ち位置を画定するものである。それだけではあんまりなので、二点ほど留保をつけておく。
①歴史性をどう考えるべきか
ともすれば零戦万歳・家父長制万歳映画であることの言い逃れは、本作が史劇であることで準備されている。曰く、これは歴史的な制約を描いた映画である。そして、その制約にそって生きねばならなかった人々の苦悩の物語である、と。この主張は基本的に正当なものである。
②「こんな女いねーよ」論者は童貞
岩崎夏海さんの評がこれである。「こんな女いねーよ」論者は童貞の偽善者であって、女性の心情の機微をなんもわかってないという批判。これを言われると手も足も出ない。
■再反論
現代の平和主義やジェンダーセンシティブで一方的に歴史的な文脈を切るべきではない、というのは正しいし、作中で示される女性観に対して、非認知主義を持ち込むべきではない、とい批判も正しいだろう。しかし、まだ何か言える余地は残っているのではないか?
一つの方向性は、「風立ちぬ」という作品は歴史的な物語であると同時に、ある特異な世界観や関係性を提示 を提示しているというものである。歴史的な背景やそこでの規範に自律的な価値を認めたとしても、作品の総体として示されている世界観や主題については何事かを申し立てることが出来るだろう。
結局のところ、そこで描かれている世界観や人々の生き様は、我々にとって何らかの救いとなるのだろうか。友人の概念を借りれば、教養小説的な体裁をもった本作について、そういう読みをすることはそう唐突なことではないだろう。そのような問いを立てた場合、「風立ちぬ」は全く救いがない作品だと思えてならない。
思うに、宮崎作品におけるヒーロー像は二種類ある。メカオタクと求道者である。ナウシカで言うと、メカオタクはペジテのアスベルであり、求道者はセルムである。どちらも社会的には周縁化された存在であり、彼は彼が作るもの、発見することによってミを立てている。このヒーロー像はそれなりに強い主体性を要求するが、それはあまり問題ではないと思う。少なくとも、その強い個性のようなものは、社会との――あるいは世俗の・大人の世界との――鋭い緊張関係において発揮されるものだからである。
他方で、風立ちぬは全くそういう話ではない。メカオタクと社会との緊張関係は、歴史的な諸制度・諸規範によって調停されている。その不可能を可能にするのは、二郎が働く男性であることと、結婚している、ということである。飛行機オタクは今やコーポレート・マスキュリニティに置き換えられ、ギャルゲー主人公と薄幸美少女は昭和な家父長制へと読み替えられる。そして、そこに内在する破綻の契機は(前述のように)顧みられることはない。
童貞批判を受け入れて、菜穂子の物語として見た場合に破綻がなかったとする。しかし、薄幸美少女を救う朴訥な好青年マスキュリニティは、本当に我々が必要とするものなのだろうか。もちろん、「風立ちぬ」が提示する世界観と生き方をよしとすることは出来るだろう。しかしそれは、それに伴う気持ち悪さに耐えうるものなのだろうか。あるいは、本作がもつ歴史的・思想的な負荷についてはどうだろうか。
◇補論1:某君の感想についての感想(ねとすと的粘着)
煙草な。童貞的偽善者にはあれが一番こたえる感は実際あり。何が一番ひっかかったかというと、結局あの世界観における親密圏は労働と対になったものでしかないという点。だから共依存厨としては仕事をほっぽり出して二人で山ごもりを始めるというのが正しい。で、特高警察に追われ、両親に勘当され、貯金も無くなっていよいよ生活が苦しくなった所で「生きねば」。これならまだゆるせる。
◇補論2:別の某君の感想についての感想(ねとすと的粘着)
結論の曖昧さをむしろ肯定的に捉える論、時間をおくと俄然説得的感じられる感はある。実際上に書いた諸々のどうしようもなさを含め、すべてをひっくるめて逆説で繋げる話ならまあ分かると思う次第。しかし、罪深くなくても(相対的に罪深くないという意味だけれども)死にたいことはある。罪が救済されるものだとすれば、死にたさはどういうものなのだろうか。それは癒されることなのか忘れることなのか。
◇補論3:別の某君の感想についての感想(ねとすと的粘着)
「戦跡の歩き方」さんの原作解説を見た限り、原作はそんなに思想的な負荷がかかった話ではなかったんじゃないかという印象を受ける(まさに雑想ノート的な)。だから多分「生きねば」の方が後付なのだ。
しかし、漫画だとそこまで気にならなくても、長編映画にすると色々シリアスになるよね、というのはあり、菜穂子関連についてはやっぱりそのあたりが不満といえば不満。
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