この視座は、評論的なものでも、価値中立的なものでももちろんなく、要するに、「さやか的観点から言って、新編はどうよ?」という話になる。だがそもそもさやか的観点とは?
(以下は物語の話です。無論ネタバレ注意)
□ 原作のどこが好きでした?
はじめに、アニメ版をもとに、さやかちゃん的観点なるものの輪郭を素描していこう。
まず、あなたは「まどか☆マギカ」の何話が一番おもしろかった?10話が決定的に重要な意味を持っているのには疑いがない。視聴者は、ほむらの物語を通して、その決断の尊さとともに、その絶望の深さを知る。この流れからの11話12話も斜め上かつ余韻のある(婉曲表現)話ダッタナー。斜め上といえば、3話もね、という楽しい談義になる。
これに対してさやか的観点は、8話が決定的に重要であるということを主張する。そのうえで、11話でほむらの物語に全てを持っていかれる前に、さやかの物語があったよね、という話をしたい。
□ 「ほむ」-「さや」の線で分けてみる
ほむらとさやかは正反対のキャラクターである、というのは改めて述べるまでもない。どこが違う?抽象的に言えば、物語における行動原理が違う。
ほむらちゃんの物語というのは、端的に言えば「交わした約束を忘れない」という決意。まどかを救うためには、何度でもループを繰り返す――しかしそのことによってさらなる困難がほむらを襲うのだ――というものだ。
これに対して、さやかの物語は、彼女が時間旅行者であれば、ループ世界の生き物であれば、成立しない。後々冷静になった時点で時間を巻き戻して上条に告白すれば、杏子と共闘していえれば、まどかを拒まなければ、大抵の問題は解決される。
月並みな言葉で表現すれば、さやかの物語は出来事の一回性という条件のもとでのみ意味を持つ。だからこそそこでは、取り返しのつかない一回限りの決断と、「他にもあり得た」という偶然性についての後悔が物語を動かしていく。
他方でほむらの物語は、ループの物語である。彼女は、出来事の一回性という条件を軽々と飛び越えて、たいへんに戦略的な立ち居振る舞いをすることが出来る。よく言われる「ループものにおける一回性問題」はこの点に関わるが、「まどか☆マギカ」の論点――というか優れた点――はそこに回収されるものではない。そこで描かれているのは、必然性に立ち向かうほむらちゃんの決意である。それは、「あれかこれか」という選択についての決断とは異なり、一度意を決すればあとはやるだけ、という類のものではない。むしろ「物事はこうであらねばならならぬ」という彼女の決意は、ループをするたびに募る無力感と諦めに抗して、繰り返し呼び起こされなくてはならない類のものなのだ。
□さやか救済の物語としてのアニメ版最終回
小括する。ここで描かれていたのは、ループものゆえの「重さ」と、一回性ゆえの「軽さ」であった。上ではざっくりと、これらを区別するために、必然性と偶然性、決意と決断、諦めと後悔、といった言葉遊びをやった(これらの含意は、上で述べた区別にしたがうものである。だから、これらの言葉の語源とは関わりがないし、まして、作中での使われ方とも関係がない)。
次に考えるべきことは、こらら2つの物語は、まどか☆マギカという総体のなかでは、どのように序列づけられ、関係しているのかという点である。
まどか☆マギカを貫徹する論点は、「希望が常に絶望を伴うとしたら、どのような希望がありえるか」というものだった。ここでいう希望と絶望は、さやか的にも、ほむら的にも解釈出来る。
さやか的希望とは「こうでもあり得た」という別様の可能性に関わる。彼女の場合、これは、私的幸福と公的正義、義務論と帰結主義といった、様々な原理の間での葛藤として描かれている。加えて、これは視聴者の願望にも関わる。あの時マミさんが慢心™しなければ、さやかちゃんが杏子ちゃんと仲良くしていれば…云々、拡散する可能性こそが希望であり、絶望であるのだ。1話から9話にかけて、謂わば超展開不条理スプラッターとしてのまどか☆マギカは、この仕組みを使って、視聴者に希望を抱かせては、絶望のどん底に叩き落としてきたといえる。
これに対するほむら的希望は、「物事はこうあらねばならない」というものだ。10話を経て明らかになるように、彼女の行動は、すべて「まどかを救うこと」へと収斂していく。彼女における絶望は、「どうやっても、まどかを救うことは出来ないのではないか」というものであって、そこにはさやかのような葛藤が生じる余地はない。
つぎに原作の展開を見る。同作のテーマと世界観の根幹をなす、「希望と絶望の相転移」は、さやかの物語に即して描かれてきたことに疑問の余地はない。したがって、「魔法少女」の問題一般にとって構成的なのは、ほむらの物語ではなく、さやかの物語であると言える。
しかし、ポストさやかの物語展開においては、さやかが提起した問題は投げっぱなしにされ、ほむらの問題――どうやってまどかが契約することを阻止し、ワルプルギスの夜を倒すか――が、最終話に向けての視聴者の関心となっていく。
さて、問題は、12話でしめされたまどか的魔法少女問題への最終的解決は、結局のところさやかの問いに対するものなのか、ほむらの問いに対するものなのか、ということである。(前にも書いたように、私の原作最終話への理解は幾分怪しく、 かつたいへん両義的に評価しているのですが、)以上のようなパースペクティブを踏まえると、それはさやかの問いへの回答だったように思える。
11話・12話の主人公はほむらであるが、彼女の問題は何一つ解決されず――それどころか、彼女にとって最悪の決着がつけられてしまった。これに対して、さやかの物語には、それなりに整合的な形での回答が示されているような気がするのである。たいへん強引に言えば、まどかの解決とは、「希望が絶望を帰結したとしても、あなたの決断は間違ってはいなかったよ」というものだ。これは、決断の偶然性とその帰結への後悔に対して、改めて決断の部分に無条件な承認を与える(というのを魔法的にやる)、ということだと思われる。
この承認に関して言えば、さやかは依然として、まどかに対して特権的な関係を保ってさえいる。まどかの契約の場面に立ち戻れば、そこには迫り来るワルプルギスの夜と、今まさに諦めつつある瀕死のほむらがいる。しかしそれだけでは、かくも戦略的な内容の契約に思い至るとは考えられない。彼女の魔法少女問題の最終的解決への着想を得たのは、直接にはキュウべえとの会話が契機であったが、そもそもの問いの発端は、まどかがさやかを救済出来なかった――8話では契約まであと一歩というところまで行ったのだが――という点にある。8話までにさやかが提起した「希望と絶望の相転移」という問いは、一旦ほむらの問題に横滑りしながらも、最終的には原作全体の結論として、決着を見たのである。
□ ほむらの物語としての新編の一貫性
さて、以上のような枠組みを携えて、まどか改変後の世界に挑むことにしよう。まどか改変後の世界、美樹さやかの消滅直後という、明確な始まりを持つ。それは、さやかの問いが解決された世界であり、したがって、さやかがもはや存在しない世界である。さやかのいない世界では、「こうであったかもしれない」というさやか的な葛藤によっては、もはや物語は作動しない。かわってそこでは、真実と正義をただひたすらに追求する、ほむらの物語が始まるのである。
このような世界における、ほむらの心境や如何に。12話B・Cパート、新編のいずれに関しても、私は、ほむらがまどかの意向を忖度し、それに振り回されていると解釈するよりも、「物事はこうであらねばならぬ」という当初の決意を、よりラディカルな形で保持していたと理解するべきであると考える。
その根拠は、彼女がいくつかの諦めへの誘惑に抗して、当初の決意を守り抜いたという点にある。最も明らかな根拠は、新編の冒頭で描かれた、真実を探求し、欺瞞を許さないというほむら像である。それ以外の有り様を認めないものとしての真実は、ほむらの行動原理とたいへんに親和的である。ほむらにとって、あの夜、丘の上の公園で、まどかが髪を結い終わるのを待ち、欺瞞の日常を受け入れる、というのは当然考慮されて然るべき展開である。同時にそうならなかったということは、ある意味では、新編のほむらの行動のうち、もっとも不可解なものである。
それ以上に決定的な根拠は、ほむらが、まどかとの再開の手っ取り早い方法として(魔法少女的な)自殺を選択しなかった、という点にある。そもそも自殺が考慮されたかすら疑わしいが、ともあれそうしなかったのは、彼女が魔法少女であること/を遂行することに、相応の規範性を見ていたからにほかならない。
以上のような論拠から言って、ほむらの「愛」はいわゆる愛とはかけ離れたものである。それはまどかとの再開や、まどかとの平和な暮らしによって育まれ、遂行されるような愛ではない。そうではなく、それはこれまでに述べてきたような、「こうであるべき」というほむら的な規範への収斂によって作動するような愛である。したがって、ほむらの「悪魔化」は欲望に屈したと解釈されるべきではなく、むしろある種の規範性が貫徹した結果であると解釈されるべきである。このような、ある一つの理想に収斂していくような規範性が、ある種の愛と親和的であるというのは言うまでもない。 それは、他者の主体性を認めないような、支配を伴う愛では必ずしも無い。まどかと二人だけの世界を構築するチャンスはいくらでもあったにも関わらず、そうしなかったことからもわかるように、ほむらの愛はそのようなものではない。そうではなく、自己と他者の関係を、規範にかなった均衡点に落ち着けるために、欲望をセーブすることを伴うような愛ですらある。
□まとめと論点
以上、収斂するほむらと拡散するさやかとを対置した。多様な可能性が開かれ、さまざま決断の間での葛藤が丁寧に描かれていたアニメ版前半の趣は新編にはまったくない。かわってそこでは、真実と愛をめぐって、ほむらの規範性が妥協なく貫徹する様が描かれている。では、この叛逆の物語を どのように評価すればよいのだろうか。以下、試論的な評価と論点をいくつか提起したい。
・百合好き民としては、愛がかくもストイックで妥協を許さないような形に収斂していくということは、たいへんに両義的なことであると考えます。世界改変という見た目の派手さや、露悪的な演出とは裏腹に、やっていることは実際あまりにもみみっちいように思います。そこには、お互いに愛を確かめあうこともなければ、依存のような派手さもありません。既成事実としてのまどさや、可能性としてのきょうさやといった、読み替えの面白さにも乏しいように思います。
・百合厨に抗して、ほむらちゃんの物語を、百合ではなく、決断主義の線から評価する――こういう読み方が当然可能であるということを、私は上で示したつもりですが――道は、もはや絶望的であるように思います。ある行為を導く原理が、結局のところ愛に落ち着かざるを得ないのでしょうか。この点については、忘れられたさやかちゃんの問題――私的達成と公的正義の葛藤――を再び引っ張り出すことが出来るのではないでしょうか。新編のさやかちゃんは、明らかに魔女に対して寛容に振舞っているのですが、これは、欲望を正義によって抑圧することでも、欲望を規範とともに全面化することでもなく、欲望が発露することをある程度社会的に承認していくという、新しいありかたを提示しているのではないでしょうか。
・私の解釈に対して、「ほむらちゃんの行動原理が一貫しているというのはさておき、だからといって世界改変に至る彼女の心境の変化は説明できていないよね」という批判は当然可能なものでしょう。この点については、後でまとめたいと思います。試論としては、心境の変化が不連続なものというよりは、連続的な過程だったのではないか、ということ。またそのプロセスにおいては、痛みが重要なポイントになるということは示唆出来るのではないでしょうか。ほむらは「今はもう痛みすら愛おしい」みたいなことを言っていましたし。
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