■第三講義 pp.34-43
□カントと政治体制
晩年になるまで、カントはずっと政治的にはまどろんでいたが、アメリカ革命とフランス革命でやっと目を覚ました。そこに至り、実践理性が国家組織の問題を考えるのに役に立たないことに気がついた彼は、道徳の問題と国家体制の問題を分けて考えるようになった。つまり「悪い人間でも善い国家では善い市民でありうる」(p.35)にはどうすればよいか、という問いが出てくる。
□悪魔の種族
では悪人とは何か?それは自分だけを特別扱いし、定言命法の例外を密かに設ける人。 カント的には悪を意志するのは不可能。さらにカント的には「密かに」というのがポイントで、悪は公にはできない。そうでもないと、皆から叩かれてしまうから。
こういう発想は初期カントにも見られる。彼は悪人の諸行為も、大いなる自然の諸規則に回収されるというようなことを書いている。ここでは、①自己保存という自然的本能があればおk②政治改革は人間の本性を善なるものにする必要はない③公共性が大事、というのがポイントになっている。
□三批判の問いと政治哲学
でもここで、「カントで本当に政治哲学を語れるの」という疑問はある。三批判の問いのうち、「私は何を知ることが出来るか」と「私は何をなすべきか」は、形而上学のテーマ。カントは社交性や伝達可能性、公共性みたいな話をしてはいるが、それは私の言葉でいう行為とはなんら関係がない。
ついでに言うと、これらの問は人間の複数性という条件を考慮していないだろう。カントにとっては、自己是認というソクラテス的なテーマが問題であって、他の人達のことは割りとどうでもよかったんじゃないかな。
□哲学と政治哲学
とはいえ、政治哲学について語ってきた哲学者も、政治的だったとは言えないよね。哲学者が政治的なことを語る場合せいぜいそれは、①他の人達を馬鹿にしているか、②哲学的思索が邪魔をされないような平穏な世の中をどう作るかということを意味しているに過ぎなかったよね。
■雑想
・理性の限界(p.39)の話がわからず。
・哲学と政治の議論はよくあるアレントのテーマ。
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