2013年6月18日火曜日

ハンナ・アーレント, 『カント政治哲学講義録』を読む②

・要約部分の一人称はアレント
■第一講義  pp.18-23
□書かれざる「第四批判」
カントは政治哲学を語らなかっただろう。政治哲学的なテーマを扱った論文集を「第四批判」と呼ぶ輩もおるようだが、中身はぱっとしないし、カント自身も(笑)をつけて語っているように思われる。

□カントの歴史哲学
それでも政治哲学的な著作を読んでいくと、歴史に関連した論文が多いことが分かるだろう。ここでも評価が難しいことには、歴史哲学をやるならヴィーコ、ヘーゲルあたりを読んだほうがいいということと、歴史哲学を政治哲学の代替としても用いているようにも思えることである。
カントは歴史を自然の生成発展と考えている。つまり、一人の人間が出生し、幼年期・青年期・壮年期…というような発展段階になぞらえて、歴史を理解しているのである。これはカント的には進歩であり自由であり文化であるといえる。だけれども、カントは進歩について憂鬱なビジョンを持っていただろう。というのは、より良い状態に向かって絶えず前進していくということは、現在の状態が常により悪いということである。だから、進歩は実際のところ「諸悪の無限な系列」(p.21)にすぎず、つらぽよ感しかない。

□カントのどこを読むか
晩年のカントは頭がおかしかったのではないか問題。だが私がみたところ 「社会的なもの」に「政治的なもの」を対置し、後者こそが人間の条件であることに気がついたのは晩年のこと。であれば、なぜ政治哲学批判は書かれなかったのか。書かれざる第四批判ではなく、第三批判の中にそれを見出していきたい。

□カントの趣味判断
カントは前批判期に「道徳的趣味判断」の論文を書こうとしたが、30年以上出版されなかった。その間に何をやっていたのか?批判を書いていた。批判を書いてどうなった?第一に、趣味という18世紀的モチーフの背後に、判断力を見出した。第二に、道徳的な命題に関わる実践理性と、判断力を区別するようになった。

■雑想
・ハンス=ザーナーは偉い
・最後の方がよくわからない。「思考が私達が知ることができるものの限界を超越し、自己自身とのアンチノミーに陥ること」(p.22)はどういうことを言っているのか。
・ 最後の一段落、趣味判断と道徳的な判断を区別することは、このあとどのように関わってくるのか。

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