2013年7月21日日曜日

えーちえむえすいんびんしぶるうぃるりーど!

ある映画についての友人の誠実かつ興味深いコメントについて。指摘を受けていくつか考えたことなど。

・経済学説はよくわかんないので、イデオロギーで切って理解している。まあそういう映画だったろう。いい文献があったら教えてほしい。
・社会(科)学における理論研究と政策研究と運動研究、あるいは学者と学識経験者と運動家のテンションの違いについて、お前はどこに居るんだといわれると自殺する。

①資本主義と不確実性問題
 不確実性を蓄積体制と捉えるのか、というのはなるほど。その意味ではネオリベ批判じゃなくて資本主義の話だよね、とうのもなるほど。非常に内在的な批判だと感じた次第。
 しかし、あの映画は「経済ショック」の話(それはむしろハーヴェイがしている)ではなくて、基本的には政治ショックの話だという理解。だから、積極的に洪水を起こしていくようなブルータルな蓄積はさすがにまずいよね、というはなしで、資本主義やめようね、というはなしではさすがにない(という理解)。その意味で、やっぱりネオリベ批判の映画であって、ここでいうネオリベは単に経済政策以上のものだったよね、というのが映画の趣旨だったろう(という理解)。だから、南米研究者が呼ばれるのは正しい。

②正統性調達問題
その流れで、議論が同意の調達の問題に横滑りするのは正しい。
 しかるに、あの映画は(少なくともある意味で)「なんでネオリベに対する同意が調達されたの?」という謎に答える映画であっただろう。すなわち、政策的・国家的な水準においての同意の調達は、惨事と暴力によって調達されていたよね、という議論(マルクス厨の理論的前提として、国家は階級対立産物であるので)。これは言い換えると、事件がおこるたびに関心が横に流れてしまう左翼ぐぬぬ感映画だったよね、という内在的感想もある。
 (むしろこっちの話をしていると思うのだが)これと並行して理論的・学問的なレベルの話をするのも正しい。実は原作はこの話を重点的にしていた説はある(読んでないが)。いずれにしても、おそらく左翼は批判理論という前提を置いているということを押さえておくと見通しがよくなるだろう。つまり、理論・学説の正しさは、客観的・中立的な真空のアカデミアで論証されたりされたりされなかったりするものではない、という議論。
 イデオロギー/階級的な偏向というところまで行かなくても、控えめに言って、70年代からここまで、左派の学者にとって有利な状況は殆どなかったよね、というのは割りと思う。冷戦期における反共主義と、フォーディズム的蓄積の行き詰まりに伴う諸々のインシデント、そしてソ連崩壊というような歴史的文脈がまずあったろう。そのなかではまた、リベラル左派民の思想的・運動的分裂があったろう。それは階級か文化か、フォーディズムを叩くか福祉国家を守るか、グローバルをどう考えるか、みたいな議論があったろう。そういう文脈でハーヴェイの「自由はかすめとられた」論を考えると色々と興味深い。

③事後的批判にすぎないのではないか問題
 これは多分あんまり正しくない。左翼は無駄にセンシチブなので、同時代的批判はあった。でもって、ネオリベでつらぽよ感が高まった時、 「ほらいったじゃん」って言う(これについてはベックがどこかで言っている)
 問題は「ほらいったじゃん」論の無責任さで、これについての批判は正しい。認識の正しさはさておき、実践における無力感が、事後的な全能感に転化するのはよくない。だけれど、そうだとしてどうすればいいのだろう?

 ④結論的箇条書き
・なんにせよ学際性が大事だよね、というのは正しい(ただしそれを運動家に要求するのはできないだろう)。
・理論的・イデオロギー的な蓄積をすることは、学問・運動の進展に不可欠。しかしやりすぎると「あいつ分かってないよな」って言われて交渉の道が絶たれて辛い。
・細分化に対して、統一的なパースペクティブを持ち出して包摂するというよりは、多重見当識的にこうでもあり、ああでもあるというのがいいねと思う(これは100年くらい前の関心だが)。それは有る種の欺瞞とセットであるとはいえ。

1 件のコメント:

  1. トラバありがとう御座います!

    不確実性については確かに少々乱暴な書き方だったのでもう少し整理したいです。

    あと一応私のフレームワークを明らかにしておくと、学問(理論)→イデオロギー(市場原理主義)→政策という流れでネオリベラリズムがやってくるという認識しています。私の主張は、仮にネオリベを諸々の原因として想定するならば、やはり第一防衛ラインでしっかり押さえこむのが理論研究してる人の仕事でもあるのではなかろうかという感じです。まぁまた色々お話をいただければと思います。ではでは。

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